『木曜散策』2023.12.21By SeimeiWada

●命題1

時間の本質は経過である。それは外部にあるのではなく頭のなかにあるというア・プリオリな確信である。

 

●命題2

あらゆる運動は、なんらかの静止物体との対比によって知覚されるということをア・プリオリに確信することができる。

 

●命題3

対象はすべて時間のうちにあるが認識する主観はそうではない。

 

●雑談

難しいことは、すべてア・プリオリに逃げたほうがいい。そうでないと神経病院の門が手招きしかねないからだ。もっと女性的に表現するならば、女神の神秘主義が手招きしかねないからだ。

 

以前の中学、高校の校長先生は威厳があった。それにも増して、専門バカと蔑視されながらもプライドと強烈な威厳があった。

 

きっちりとした背広の襟にコロンの匂いを忍ばせる言語学者がいた。言語学者といえば、かの有名なニーチェをあげることができよう。しかしそんな斜め茶間のイジケタ頭脳ではない、コロンの軽いタッチの世界観をかもしだしている。

 

さて、すこし真面目に学者の精神に入ることにしよう。

 

対象に接する場合には二つの方式がある。一つは学者の方式である。一つは、若妻の方式である。

 

若妻の胸元で乳を欲しがる現象を目の当たりにして、母乳の快適空間のために助力をするかわりに、概念を駆使する。一瞬、母乳の量と赤子の満足関係の時間軸を考えてしまう。職業病としては自然なことである。しかし、重大な学説にたどり着くかもしれないが、それまでには長い時間がかかる。若妻の直観は、ものの数秒で結論に達してしまう。

 

以上が直観と概念を考えたうえでの実例のひとつである。学者の発想を家庭生活に持ち込もうものならば、すかさず二歳の女の子から頭をピシャとたたかれて、こういわれるであろう。パパあ、頭に数字の蛇がとぐろをまいているよと。

 

現代人などの臆病風に吹きざらしにある御仁は、慎重には慎重を重ねて、すなわち概念を駆使して万全なコンデションをもってことにあたる。このことは一見、正しい方向にみえるが、誤謬が紛れ込む可能性がある。そのときの失敗はだいそれたものになる。

 

それは人間の伝家の宝刀、概念の性質による。動物のほうが対象に迫るときに誤りが少ないのは、直観の世界に軸足を常に置いているからである。概念は現実の抽象化という工程をとるために純粋に直観を見いだせなくなる危険と背中合わせとなる。概念の最大の効用は言語というツールを用いて記録にのこすという役目である。後日の反省の材料としての存在意義がある。ただし、万能ではないということを肝にめいじておかないといけない。

 

だから、ときには目蔵めっぽうに行為に移すやり方も危ないわりには有効となりえる。もっと飛躍するならば、占いの八卦からでもいいものであろう。

 

[彼らは欲する。

絶望から遠ざかるほどあいでの、成功をなし、

退屈から離れるほどあいでの、失敗をなす。

By SeimeiWada]

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