By kiyoaki Wada
欧州議会選挙で各国の極右政党が議席を伸ばしている。
極右という響きは野蛮で、暴力的なイメージがする。ファッシズムとも繋がったイメージがする。あるいは、ロシア、プーチンの強権性とも似たものを感じる。領土拡張的な、荒っぽい中国の習近平の姿と重ね合わせたくなる。
はたしてそうだろうか。フランスの極右政党である国民戦線のマリー・ルペン女史は颯爽としている。
軍産複合体を地でいっているようなウオール・ストリート・ジャーナル紙が「プーチンのパリの女」と下世話なコメントを残しているように、支配階層である英米の民主主義を標榜してきた国々にとっては、強権的、独裁的、かつまた極右は生理的によせつけない代物であろう。
はたしてそうだろうか。
民主主義も統治上の一つのテクニックであったことを知る必要がある。
歴史的には農奴、現在では中層階級のサラリーマンたちが穏当に納税してくれるシステムが民主主義である。このシステムの守護神がわが国であれば官僚体制である。最近では小沢という、彼らにしてみれば癌細胞のような人物をじょうずに葬り去ることができた。知的階層から言論界総動員した対応ぶりはすばらしいものであった。美的であるとさえ言えた。
農奴たちの満足もそこそこに刺激し、政治的、国家的エリートの体制を維持することが民主主義の根幹をなすと定義づけることが出来る。
以上の思考方向から、世界的に極右傾向を強めてきている風潮を見てみる。
結論は政治的、国家的エリート体制にほころびが出てきているということにつきる。民主主義に変わる新たな仕掛けを考案しないことには、農奴たちから税と徴兵の義務を勝ち得ない。
数パーセントのものが国の富の過半を独り占めにしている体制などどのように美辞麗句でデコレートしようが、農奴もいつまでも馬鹿ではない。
欧州議会選挙における極右の勢力拡大は、荒っぽい臭いはするが、長い目でみると根本のシステム変動へとつらなる予兆であるととらえうる。